3月14日(月)

東京はまだ揺れる。

いまはあまり見ないようにしているけども、きのうまでぼくは連日のテレビやツイッターですっかり気持ちが滅入ってしまってた。悲しさとか悔しさとかであんなに涙が出たのは初めてだった。

ぼくは地震には遭ったけれど、その瞬間はバンドみんなでいて、揺れたあとにみんなでのんきにうどん食べたりしてた。直接被った被害なんてのは88鍵のエレピを押しながら三時間歩いたことによる筋肉痛だけだった。知り合いが怪我したとか、身内が行方不明だとか、持ってるビルが崩れたとか、そうゆう被害も、奇跡的な幸運でなんにもなかった。それにぼくは普段から政治だとか国内情勢だとかに対して特別な関心を持っていたわけじゃない。この前起きたニュージーランド地震で日本人が被害に遭ったって聞いたときも、別段なんにも行動してない。

そのぼくが、災害に見舞われてしまった(いまどんな気持ちで過ごしているのかすらも想像できない)被災地の人たちに対して、応援だとか励ましだとかのコメントなんて、そんなこと(ぼくは)できないし、すべきじゃないとおもった。ツイッターとかブログとか、被災地の人たちに届くのかも確かじゃないそれは、安全な場所で同じことを考えている人たちへのパフォーマンスにしかならないと思うから。

こういうときはだれが何をしたって、正解とか不正解はないと思う。節電しろってゆって、たくさんの人が日夜営業しているパチンコ屋を糾弾してるけど、ぼくはそんな必要ないと思うし、パチンコ屋さんの暮らしはどうなると思ってゆってんだろうって思う。うまく言葉にできないし語弊もあるかも知れないけれど、他のひとがしていることやゆってることを見ていて、素直に受け止められなくて苛立ったり、かと思ったらなにも行動してない自分が情けなくて悔しくなったり、そんな自分の方がよっぽど小さくて、どんなことだろうとなにか行動を起こせる人間の方が強くて立派なのかとも考えた。

ぼくは自分の作る音楽に、こういうときにだれかのなにかのためになる『音楽の力』みたいなものがあると思ってなかった。だれかに希望や平安みたいな、そんな大げさなものを与えようと思って音楽を作ったことないもの。だから、今ぼくが音楽を演奏して歌を歌うんなら、それは被災地の人たちに届いてほしいものじゃない。何度も何度も繰り返し、いまもテレビで流れている、津波に町が飲み込まれる瞬間や、泣いてる子供や、途方にくれるたくさんのひとたちの、そうゆう映像を見て悲しい気持ちになって、いまも続いてる余震に怯えてる、都内で震災の被害にあったひとたちに。テレビ見てつらくなっただけで被害者だと思うし、そのひとたちになら、歌えるんじゃないかって思った。
なにより、ライブを見たいってゆってくれるひとがひとりでもいるんなら、ぼくらは演奏しなきゃならない。それはどんなときだって間違いないことだと思う。


だから15日は歌う。電気も使わせてもらう。まだ気持ちはすこしもやっとしてるけどもきっとおっきい音出したら、きっと元気になる。ぼくが作った大停電の夜にってゆう歌は、いま歌わなきゃだめな歌なんだ。
音楽の力を身をもって体感したい。
歌いたいと思う。